<< Next Prev >> 2009年10月4日の集い

「信仰者は誰でもキリストの姿へと聖化できます」

記: 西原智彦

新生、義認は瞬間的な出来事ですが ・・・

10月最初の礼拝は、秋晴れの素晴らし・・・

39分41秒 (9.1 MB)

メッセージに応答!

新生、義認は瞬間的な出来事ですが、神のかたちを回復する聖化の歩みは一生続く苦しい道のりです。しかし神は、一人一人の信仰生活の出発時に、聖化の道を歩みとおせる環境を準備され、信仰者は誰でも聖化できるのです。その理由を2つを学びましょう。

第一に、御父と聖霊によりすべての信仰者は、聖化を阻害する人々から分離されたからです。旧約聖書における「聖」の原義は「切る、分離する」です(出エジプト13:2)。新約聖書においても同様に、信仰者のことを「聖なる国民」(1ペテロ2:9)、「聖徒」(1コリント1:2)と呼びます。それは漸進的に続く聖化の第一歩として、信じた瞬間に聖別されたという意味です。その様子は、ヨハネ福音書15章において、御父である農夫が不必要な枝を刈り込んで、実を結ぶ枝を成長させる例えに表されています。「刈り込み」とは15:3の「きよい」と同義語であり、裏切るユダ以外をきよいとされたことと同じです(13:10,11)。聖別と聖化の実務を担当するのは聖霊です(2テサロニケ2:13,1ペテロ1:2)。「救われよ」との神の不可抗的な召しをいただいた瞬間に、聖霊がその人の心に飛び込んで新しい命を与え、その時から信仰者は誰でも、聖霊によって聖化できる環境を用意されているのです(ロマ8:11,ガラテヤ5:22-23)。

第二に、御子イエスによりすべての信仰者は、罪を犯せない新しい人生観に生かされているからです。信じた瞬間に起こるキリストにつくバプテスマにより、信仰者は罪の奴隷から解放され、新しい命を得ました(ロマ6:1-4)。ですから原理的には罪を犯さない、犯せない人生観の中に生かされているのです(1ヨハネ3:6,9)。信仰者といえども単発的、継続的に罪を犯すこともあるでしょう。でもそれは罪の奴隷ゆえではなく、罪の悪習を引きずる信仰者自身の意思によるものであり、それは御父の懲らしめにより矯正が可能なのです(ヘブル12:7)。

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