「私たちは同じ思いになることができます」
ピリピ人への手紙3章13-16節
記: 西原智彦
主イエスを救い主として信じた時、 ・・・

秋晴れの素晴らしい日曜礼拝でした・・・
主イエスを救い主として信じた時、私たちは同じ信仰を道を歩み始めます。しかし信仰生活の年月と共に考え方の違いが現れ、同じ思いを抱きづらくなる場合もあります。それは喜ばしいことではなく、教会成長のブレーキとなります。どうすれば信仰者は同じ思いになれるのでしょうか。その方法を3つ、ピリピ書3章より学びましょう。
第一に、一人一人が正しい目的を抱いて信仰生活を送ることです(13-15a節)。私たち信仰者の信仰生活は、聖書に記された神様の御心に添って、自分自身の人生観を矯正する歩みです。しかもそれを各人がそれぞれ行います。ですから一人一人が聖書の示す信仰生活の正しい目的を心得るとき、私たちは同じ思いになる理想的姿を知るのです。
第二に、間違った姿勢で信仰生活を送る人に対する、正しい接し方を心得ることです(15b節)。残念なことですが、正しい目的を抱かずに信仰生活を送ってしまう信仰者がいるのも現実です。そこで間違った姿勢で信仰生活を送る信仰者への接し方を心得ることが現実的には必要です。その接し方とは、神自らがそのような信仰者に、信仰生活の正しい目的を教えてくださることを待つ、という消極的な方法です。これにより私たちは、同じ思いになる現実的姿を知るのです。
第三に、教会においては信仰の共通理解部分を基盤として働きを前進させることです(16節)。神の働きを待つ消極的方法は大切ですが、その間にも教会の働きを前進させなければならない現実もあります。その場合、少なくともキリスト教信仰の土台における共通理解があるはずですから、その一点を基盤として前進すべきです。「すでに達しているところを基準として進むべき」とは、「私たちが共通理解している信仰の土台に従って一緒に行進する」という意味です。これにより私たちは、現実の中で同じ思いになる対処術を知るのです。
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